• |
  • ブログ

  • |
  • 〈プロ野球再編当時の蜜月〉「一...

〈プロ野球再編当時の蜜月〉「一切、『監督になりたい』と言わないんです」野村克也が堀江貴文と交わしていた“知られざるやりとり”

書かれた 沿って notbook

3月24日(木)12時0分 文春オンライン

〈落合博満との絆〉シダックス監督時代の野村克也に届いたプロ球団からの1本の電話…中日ドラゴンズ“監督候補説”の意外な真相から続く

2004年、近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併に端を発したプロ野球再編問題。結果的には「楽天」が新球団を所有することになったが、当時、堀江貴文氏が代表を務めていた「ライブドア」も球界への新規参入に名乗りを上げていた。そんなライブドアの監督候補には野村克也氏の名前が挙がっていたが……。

ここでは、野村克也氏がシダックス監督を務めていた3年間を追い続けたスポーツ紙記者、加藤弘士氏の著書『 砂まみれの名将 』(新潮社)の一部を抜粋。野村氏とライブドアが水面下で行っていたやりとりの一連を紹介する。(全2回の2回目/ 前編 を読む)

◆◆◆

幻のスクープ

「この前、会った。でも、今は書かないでくれよ」

眼鏡の奥にある、野村の眼光が鋭さを増した。スクープの誘惑と、取材相手との信頼関係。どちらを優先すべきか。

頭の中でシーソーが激しく上下する。私は「はい」も「いいえ」も言えず、69歳の名将の前でただ立ち尽くすだけだった。

球界再編騒動は激動の日々が続いていた。ライブドア社長の堀江は「時の人」として、プロ野球新規参入への意欲をアピール。メディアもその一挙手一投足を追いかけていた。

野村はシダックスのプロ参入に色気を見せていたが、志太(編集部注:シダックス会長[当時])は明らかにトーンダウン。それでも名将はテレビ出演の機会も増える中、球界の御意見番として、プロアマ一体での球界改革を主張し続けていた。

「カントクにもライブドアからのオファー、あるんじゃないですか?」

そう問うと決まってこう返された。

「絶対ない。こんなジイさん、誰も相手にしてくれないよ」

しかし、都市対抗大会を終えた9月半ばのことだった。シダックスが練習を行う関東村グラウンドに足を運ぶと、運良く報道陣は私一人だった。雑談をする中で、堀江の話題になった。

激しさを増す、球界再編を巡るスポーツ各紙の報道戦争

そこで飛び出したのが、「この前、会った」という冒頭の言葉だった。

69歳の名監督と、31歳の「時代の寵児」による極秘会談—。

それだけで興味深い。

デスクに報告すれば、間違いなく「書け」になるだろう。

「ノムさんとホリエモンが密会……新球団ライブドアが監督にリストアップ 強烈な個性ぶつかる38歳差の異色タッグ結成も」

紙面イメージが脳裏に浮かんだ。

十分、1面もいける話題だ。

球界再編を巡るスポーツ各紙の報道戦争は激しさを増していた。野間口の進路については3紙の「同着」となった。私には一発かましたいという焦りがあった。

何年経っても消えない後悔

だが、「今は書かないでくれ」という言葉は重い。野村からそんなことを言われたのは、初めてだ。取材対象の本音を引き出せるのも、日頃の信頼関係があってこそ。今後も担当は続く。「書き逃げ」は許されない。

〈プロ野球再編当時の蜜月〉「一切、『監督になりたい』と言わないんです」野村克也が堀江貴文と交わしていた“知られざるやりとり”

でも、そもそも「今」っていつまでなんだろ……。

悩みに悩んだ。結論から書くと、私は一歩踏み出せなかった。嫌われる勇気がなかったのだ。

書けば良かった。あの日から何年経っても、ずっと後悔は消えなかった。

ならば直撃するしかない。もう一方の当事者に。2016年1月、インタビューが実現した。

「2時間くらい、話したのかな。球界の中ではかなりの理論派というか。アタマ、いいですよね。『この人、結構年齢いっているけど、面白いなあ』と」

スカイプでの取材。パソコンの画面越しに、堀江は「密会の夜」の真相を語ってくれた。

堀江との問答は想像以上にエキサイティングだった。予定の20分を大きく上回り、40分にわたって球界新規参入を巡る喧噪の日々を回想してくれた。

極秘会談の仕掛け人

証言をまとめると、密会の真相はこうだ。

場所は赤坂プリンスホテルのスイートルーム。初対面だったが、意外と話は弾んだ。勝てるチームの作り方から、地域密着の重要性に至るまで、話は尽きなかった。

極秘会談はなぜ実現したのか。

仕掛人は妻の沙知代だったという。

堀江は言った。

「独自にものすごいアプローチがありましたから。『とにかく旦那に会ってくれ』って。後はシダックスの会長からも来ていました。『野村さんをまたプロの監督に返り咲かせてくれ』と」

私は取材ノートを見返した。確かに9月14日、テレビ東京のビジネス番組で、志太と堀江は初接触している。野村の望むプロ参入に消極的だった志太が、「ライブドア・野村監督」を堀江に売り込んだとすれば、時期的にも合点がいく。

盟友に対する志太なりの精一杯の配慮だったのだろう。

「今は書かないでくれよ」と言った意味

会談に同席していた、ライブドアベースボール取締役だった中野正幾は当時26歳だった。私の取材に、野村の印象は鮮烈だったと話してくれた。

「経営者として戦略思考で組み立て、チームを作っていける方だなと思いました。でもその場で野村さんは一切、『監督になりたい』と言わないんです」「次の日、携帯に沙知代さんから電話がかかってきて。『主人が昨日、楽しかったみたいです。主人、どうしても監督をやりたいって。本当にありがとうございました』と、26歳の小坊主にですよ。沙知代さんは義理人情に厚い方でした」

ライブドア内では「初年度から本気で勝ちに行くなら、指揮官は野村」という意見も強かったが、正式オファーは見送られた。親しみやすさが重視され、監督は阪神の駐米スカウト、トーマス・オマリーで一本化された。堀江はこう続けた。

「フレッシュなイメージでいきたかったから、野村さんのイメージではないと。でも野村さんは、やる気マンマンだったなあ」

今なら少しだけ分かる。

あの時、野村が「今は書かないでくれよ」と言った意味が。

IT企業同士の新規参入バトルを制したのは

阪神監督としては3年連続最下位。妻のスキャンダルもあり、志半ばでプロ野球界を追われた。

もう一度、プロの監督で勝負したい。野村と沙知代はそのチャンスをうかがっていた。そこで起きた球界再編騒動。

ライブドアか、あるいは……。今は見極める時期。世間に「ライブドア・野村監督」のイメージが先行してしまうのは、決して得策ではない—。

そう、野村はしたたかな「戦略家」でもあったのだ。

IT企業同士の新規参入バトル。制したのは「後出し」で名乗りを挙げた楽天だった。

たまにあの日の眼光を思い出す。俺は絶対にまた、プロのユニホームを着るんだ。このままじゃ終われるか—。

瞳にはそんな執念が宿っていたな、と。

書かなかった後悔は一生、消えそうにない。

【前編を読む】 〈落合博満との絆〉シダックス監督時代の野村克也に届いたプロ球団からの1本の電話…中日ドラゴンズ“監督候補説”の意外な真相

(加藤 弘士)

関連記事(外部サイト)