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『ヤヌスの鏡』杉浦幸が 「アイドル時代のカネと恋」を激白…!(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

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すぎうら・みゆき ’69年、東京生まれ。アイドル雑誌『Momoco』の美少女募集コーナーに友人が応募したことをキッカケにデビュー

『ヤヌスの鏡』杉浦幸が 「アイドル時代のカネと恋」を激白…!(FRIDAY) - Yahoo!ニュース

「いきなり主演に抜擢(ばってき)されて、スタッフの方に『視聴率はオマエに掛かっている』と言われました。演技未経験の16歳の高校生にですよ? 案の定、人形のような動きになっちゃって、最初に試写で自分の演技を見たときは『これがテレビで流れるの?』ってゾッとして泣きました」【画像】キャッチコピーは「あ、まなざし」。美しすぎる杉浦さんの…!’85年末から放映された『ヤヌスの鏡』(フジテレビ系)で杉浦幸(みゆき)(52)は鮮烈デビューを果たした。「普段は優等生だが、ふとした拍子に凶悪な不良少女へと変貌する多重人格の女子高生」という難しい役どころに挑戦した姿は、36年経ったいまも業界で語り継がれている。「大映テレビの制作だったんですけど、大映さんのドラマって、日常生活では使わない大げさなセリフが多かったから、まず覚えるのが大変でした(笑)。厳格な祖母から折檻(せっかん)を受けるシーンがたびたびあって肉体的にもキツかった。ベテラン女優の初井言榮(はついことえ)さんは寸止めでやってくださっていたのに、“痛い顔”の演技ができなくて、監督に何度も台本でぶたれましたね。バチーンとやられて顔をしかめたら『それだ!』って(笑)。いまでは考えられない演技指導ですよね」撮影は連日明け方まで続き、睡眠時間は2~3時間。杉浦は何度も逃走を企てたという。「過酷の一言でした。教師役の山下真司さん(69)に投げ飛ばされるシーンなんて20~30回もブン投げられたあげく、コンクリートに首を強打して気絶しましたから。気がついたら病院のベッドの上で、近くでお医者さん3人がジャンケンしているんです。誰が私のレントゲンを撮るかを決めているんですよ。撮るときに上半身裸になりますからね(笑)。それでも『さすがにドラマの撮影は休止だろう』と喜んでいたら、首にコルセットを巻かれてトンボ帰り。お医者さんに『1ヵ月はコルセットを外さないで』と言われたのに、『撮影中の事故がバレたら困るから』と帰り道で外されて……」苦労の甲斐あって、ドラマは大ヒット。杉浦は一気にトップスターの仲間入りを果たした。「よく『ヤヌス御殿が建ったでしょ?』と聞かれましたが、お給料は歩合制じゃなく月給制だったんです。月5万円でマクドナルドでバイトしている友達より安くて、現場まで電車で通っていました」’86年1月には歌手デビューを果たしたが、記念すべきファーストシングルのタイトルは『悲しいな』だった。「デビュー曲で、なんで悲しまなきゃいけないのか(笑)。他にも候補があって、私は『初めまして』って曲を推したんですけど、これがマズかった。『歌手が推した曲はヒットしねえんだよ』とかなんとか言って、スタッフさんがNG出しちゃったんです。それでもオリコンチャートで4位に入って、『輝く!日本レコード大賞』の新人賞を狙えるかなって期待したんですけど、事務所の方針で賞レースには参加させてもらえませんでした。スタッフさんは“今年の新人賞は『少年隊』の『仮面舞踏会』に決まっているから”なんて冗談交じりに話していましたね」賞レースには参加できなかったが、歌番組には出演できた。「『ヤヌスの鏡』の現場では『主演は共演者と口をきくな!』と接触禁止令が出されていたんですけど、歌番組は同世代のアイドルと話ができて楽しかった」と杉浦が微笑む。「本番中に男性アイドルから電話番号が書かれたメモを渡されたりしましたね。当時は携帯電話がなかったから、留守録付きの電話を使って待ち合わせするのが流行っていました。暗証番号をシェアして、出先の公衆電話からメッセージを残したり、確認したりするわけです。デート場所は神奈川や埼玉の地元のおじさんが独りでやっているような居酒屋とか、おでん屋さんを選んでいました」『このこ誰の子?』(フジ系)で『男闘呼組』の岡本健一(52)と共演しただけで、カミソリやゴキブリの死骸入りの手紙が届く。そんな時代だった。「ずっと葛藤(かっとう)がありました。アイドルはショーケースの中のケーキみたいな存在。多くの人の視線に晒(さら)され自由がない。ファンのイメージを壊さないようにと私服まで制限される。10代の後半って、ちょっと背伸びしたくて黒っぽい服が着たくなるものですが、パステルカラーの服しか着られない。『コム・デ・ギャルソン』が流行っていても、私はいつも『ピンクハウス』みたいな。杉浦幸は本名なのに、世間が知っている杉浦幸は別人。自分がわからなくなって、精神的に追い詰められました。いまだから言えますけど、ビルから飛び降りようかと思ったこともありました」20歳で人生をリセットすることを決意。所属していた大手事務所を辞めた。「いまでこそ退所したり、独立したりするアイドルが増えていますけど、当時の芸能界では一大事でした。スムーズにはいきませんでしたけど、引退覚悟で押し切った。相変わらず給料は安くて生活はカツカツ。月末はいつも生活費が底を突き、コーヒーとおにぎり、どっちを買うか迷うような状態。限界でした」一度は芸能界から離れたが、休養期間を経て活動を再開。’90年代半ば以降はパチンコ番組のMCやリポーターとして活躍し、パチドルと呼ばれたこともあった。現在はフリーでタレント活動を継続。’19年には『ヤヌスの鏡』が34年ぶりにリメイクされ、杉浦はナレーションを担当した。「苦しい時期もありましたけど、いまはすごく人生が楽しいですね。ツラかった『ヤヌスの鏡』もいまでは杉浦幸の偉大な歴史の一ページと言える。公私とも、私の人生はヤヌス抜きには語れません。唯一心残りなのは、リメイクが決まったときにヒロインを折檻する祖母役をやれなかったこと。私が祖母役になったら、面白いじゃないですか? 情報が入っていれば逆オファーしたんだけどな」今年、歌手デビュー35周年のイベントが予定されていたが、コロナの影響でキャンセルになった。それでも杉浦は「こんな時代だからこそ、できることはなんでもやりたい」と意欲的だ。「人を落とすのが人ならば、人を上げるのも人。私ができることなら何でもトライしていきたい。50歳を過ぎましたけど、まだイケます。むしろ、私はこれからでしょ! って思っていますから。グラビア? それは需要がないでしょ(笑)」デビュー当時につけられたキャッチコピーは「あ、まなざし」。かつてのあどけなさは消えたが、自分を取り戻した杉浦幸の“まなざし”はいまも輝いている。『FRIDAY』2021年12月10日号より取材・文:栗原正夫ノンフィクションライター

FRIDAYデジタル

最終更新:FRIDAY