さて26回目です。今回は中年医師の思い出話です。
僕の田舎は鹿児島にあります。昔はそれなりに栄えていたようですが、今では子供のころのにぎわいもずいぶん少なくなっている武家街です。祖父、神田橋肇は明治の終わりの生まれで、当時で言う韓国の京城帝国大学で医学を学びました。
先日帰省した時、その頃のノートを大事に取ってあるのが何冊も出てきました。各分野について日付と講義の中身が几帳面な字で記されています。ここにお見せするのは臨床内科学の講義ノートです。回虫症の講義であることは分かりますが、あとはほとんど読み取れません。当時はドイツ語交じりの講義でそれを必死に書き取っていた若いころの祖父の姿が目に浮かぶようです。
祖父はその後軍医になりインパール作戦に従事しました。ご存じの方も多いと思いますがこの作戦は日本の大敗に終わりました。従軍した約10万人のうち7~8割が生きて帰ってこられなかったと伝えられています。帰ってくるときの渡河は相当大変だったようで祖父の辞世の句 にもそのときのことが引かれていました。
終戦後は地元で開業し、引退するまでそこで外科医として一生を終えました。幼稚園の頃に見たタイル張りの診察室の真ん中にあった手術台(だと思いますが)が今でも思いだされます。今では胃がんの手術は外科医にとって必須の技術です。しかしながら軍医であった祖父は胃潰瘍の手術はできましたが、胃がんの手術を学ぶ機会はありませんでした。いつか自分が前立ちをやって子供か孫が胃がん手術を行っている姿を見たいというのが祖父の口癖でした。子供と孫の中には医師はいますが、精神科医になったり、麻酔科医になったり、他学部で何年も留年した挙句に産業医になったりと、外科の道を選んだ者は現れませんでした。祖父の夢はついにかなえられなかったなと、なんとなく心の片隅に残っております。
先日、私の外来にインパール作戦から戻ってきたという患者さんがいました。主訴は風邪です。90歳を超えておられましたが、矍鑠として歩いてこられました。現病歴や生活歴を聞いているうちにインパール作戦の話になりました。計算してみるとおそらく祖父と十数年違いです。最前線で戦っていたそうで、軍医をやっていた祖父と比べてもさらに厳しい環境だったということを聞き愕然としました。先ほどまで隣で話していた友人がふっと気が付くと息絶えているとか、もっとここには書けない話もいっぱいお聞きしました(この話を書くことはご本人に許可を取ってあります)。その後、お会いしてないのですがお元気でいらっしゃるのでしょうか。
ところで、祖父の話をSNSに書き込んだところ、「自分も祖父が軍医で従軍した」というコメントがたくさん寄せられました。すると意外な共通点がありました。祖父に当たる人たちはほとんど戦場で何があったかをしゃべりたがらない、いろいろ聞いてやっと答えてくれるということ。僕の祖父も含めほとんどの方がそうでした。
もっと驚いたのはその孫であるわれわれです。一人残らず皆、電車や飛行機で「お医者はいませんか」と呼び出されたら真っ先に飛び出す。急患を見たらまず処置する。僕も電車に接触して転倒し、意識を失った方や、よく分からない心肺停止の方、最近は少なくなりましたがてんかん発作の方、転倒し頭部から流血している方など、色々な方のfirst aidに当たってきました。倫理的義務感からというよりも、何よりまず先に体が動くそうです。自らにもリスクもあろうに皆そういう風に「できている」かのようでした。理由は分かりませんが、おそらく祖父から親、自分と伝わってきた教育か何かが今の僕たちを作り上げているのかもしれません。
祖父の残してくれたノートを見つつ、健在だったころの祖父や、不真面目だった学生時代の自分を思い出します。あまりにも違いすぎますが、きっとそこから僕は何かを学んでいる。自分の子供たちにもおそらく自分の意識していないところで何か伝えているのかもしれない。そんなことを考えたりしています。
神田橋宏治(かんだばし こうじ)1967年生まれ、1992年東京大学理学部数学科卒、1999年東大医学部医学科卒。東大病院内科で研修の後、東大第一内科入局、血液・腫瘍内科入局。都内病院で研修後、2008~2011年東大病院無菌治療部助教。2011年からとしま昭和病院勤務、2015年合同会社DB-SeeD設立。