――2003年に初めて来日し、ミュージックステーションを番組中に「ドタキャン」しましたね。いったい何があったのですか。
当時、私たちは「時速200キロで逆走」というファーストアルバムのリリースに合わせて日本に行きました。日本はまったくの別世界でしたね。興味津々で。当時、私たちはまだ18、19歳と幼かったです。ヨーロッパにはすでに行っていましたが、日本とアメリカ行きは「ないだろう」と思っていました。日本でも同じような成功を待ち望んでいました。
そもそもタトゥーの初期はスキャンダルとともにありました。プロデューサーのイワン・シャポワロフ氏のアイデアです。私たちがレズビアンという設定もそうでした。同性愛を非難してはならないというメッセージもありましたが、まさにそれはプロジェクトでした。
「Я сошла с ума(英語版のタイトルは「All The Things She Said」)」という曲が世界中でヒットし、驚異的な成功を収めました。そのため、イワンは「スター病」になっていました。私たちの活動はすべて彼の言いなり、彼のアイデア通りにやっていました。
今であれば抵抗するのでしょうが、当時はできませんでした。例えば、アメリカとイラクの戦争を止めようと抵抗するようなものですね。彼は自分のアイデアをどう観客に届けるかも考え、私たちはすべて実行しました。
さて、ミュージックステーションに出演したときのことです。このときはレコード会社の「インタースコープ」の協力で実現しました。私たちは楽屋で衣装を着てメイクをして、出演を待っていました。
するとバーニャ(イワンの愛称)が突然、電話で「出演してはだめだ」と言ってきたんです。私たちは「バーニャ、なぜ出演を拒否するの?」と聞きました。すると彼は「あとで説明する。お前たちは俺のことを信用できないのか?」と言いました。
楽屋にはインタースコープ社の人たち、私の母と妹もいましたが、みんな状況を理解できませんでした。最悪でした。出演しなければならないことはみんな分かっていましたが、シャポワロフ氏の言うことを聞かないことを恐れました。
ディレクターは彼に「そんなことをしたらばかだ。出演するべきだ」と言っていました。私たちももちろん、そう思ったんですが、私たちは当時、完全に服従状態でした。
彼はまさに「権力者」で、すべてを決めていました。人は突如、自分のことをまるで神様のように思うと、そんなとんでもないことが起きてしまうのです。その時の彼がまさにそうで、何でも自分で決められるという万能感があったと思います。実際、それまでは成功していましたから。
なぜ彼がドタキャンをさせたのか、後になって分かりました。わざとスキャンダルを起こし、私たちをもっと有名にしようとしたのです。
タトゥーはすでに日本でも人気があったのですが、バーニャはもっと人気を高めたかったのです。でも、結果的にすべて失うことになりました。私たちは日本を失ったのです。
それをより実感したのは、その次にやって来たときです。なにせコンサート会場は半分しか埋まらなかったのですから。
バーニャはそうなることを予想しなかったのです。というのも、ロシアでは同じようなスキャンダルを用いた手法はうまくいって人気が上昇しましたし、ヨーロッパでもそうでしたので。ところが日本ではまったくの逆効果でした。人々は単に私たちを憎んだだけでした。当然です。彼は日本を理解していなかったのです。
――日本のファンに対し、どんな気持ちだったのですか。
彼は深刻な失敗をしましたし、彼と一緒にやっていた私たちの失敗でもあります。起こしてしまったことは変えられません。日本の皆さんを傷つけてしまったことを謝りたいです。もしすべてを変えられるなら、変えたいです。
――その後、シャポワロフ氏との関係はどうなったのですか。
タトゥーとしての当時の活動では、私たちは何も創作しませんでした。バーニャが言ったようにするだけでした。
バーニャは、タトゥーは「スキャンダラスですごい存在」という路線ですべてやっていました。あるときなんかは彼から「お前たちは有名なんだから、大統領選に出馬させるぞ」と言われました。バーニャはいつも何か言っているのですが、意味不明でした。彼が言っていること、何をすればいいのかも私たちはまったく理解できませんでした。
結局、ドタキャンの後、間もなくして彼との契約は打ち切りました。彼はアルコールや麻薬など、ショービジネスではありがちな問題を起こし、プロデューサーとしてふさわしくないと判断したからです。
イワンとの契約解除は難しい決断でした。なにせ私たちはイワンが製造した商品だったわけですし、それまでの成功もイワンのおかげでしたから。ユーリャもちょうど妊娠して活動を一時休止することあり、イワンと決別することを決めました。
イワンに代わるプロデューサーのなり手が見つからず、スポンサーだったボリス・レンスキー氏が就任しました。彼の提案で渡米してセカンドアルバムを制作することになり、インタースコープ社との関係も戻りました。2004年のことです。
一時の成功はすべて消え去りました。バーニャがもし同じ手法をアメリカやイギリスでやっていたら、別の結果になっていたかもしれません。そういう意味では、国民性を知っておかなければなりませんでした。
当時の自分を振り返れば、なんと愚かだったんだろうと思います。自分はスターだとうぬぼれていました。みんなを見下していました。十代の愚かな少女だったのです。最低で、恥です。
バーニャと決別した後、私たちは「天下のタトゥー」というプロジェクトに取り組みました。テレビ向けのドキュメンタリー番組です。インタースコープ社との関係も復活しました。
しかし、日本でのスキャンダルが私たちのその後にネガティブな影響を与えました。大いなる失敗でした。日本で2回ほど公演をやりました。DVDも出したかったのですが、日本における私たちへの怒りはすごくて。状況は変わりませんでした。
その後、私はロサンゼルスに拠点を移しました。もう4年になります。ソロアルバムの制作などに取り組んできました。日本でもう一度活動したいです。日本の国と人々に対して謝りたいです。
――本当のところ、日本に対してはどんな感情を持っているのですか。
私を含めてロシアの若い女性にとって日本は特別な国です。あらゆる点で違いますね。例えば人々の振るまい、伝統的な文化。モスクワの人たちはマナーが悪く、何かと言いえばすぐかんしゃくを起こします。でも日本は違う。
日本は美しいです。公園の池に泳ぐ魚とかね。文学は特に美しい。あと書道作品。あれはもはや絵画でしょう。これまでに見たことのない美しさです。
日本に行くまでは、日本について学校で学んだくらいの知識ぐらいしかありませんでしたが、「美少女戦士セーラームーン」は大好きでした。
日本に初めてやって来たときの感動は忘れません。まず、人々がポジティブな感情で接してくれました。スタジオやコンサート会場に入れなくてもすごく私たちを歓待してくれました。その様子にとても驚きました。日本のレストランの食事はとてもおいしかったです。私は寿司が大好きになりました。母と妹は相撲を観戦しましたね。
買い物もすごく楽しかったです。サイズを見つけるのが難しかったですけど。仕事で日本に行くのではなく、ぜひ一人の観光客として行くという夢があります。ちなみに母はテンションが上がっていて、妹は日本から帰ってから、日本のアニメファンになり、日本語を学ぶようになりました。私がアメリカに住むようになってある年の誕生日、妹に頼んで日本のアニメ作品の動画を送ってもらったぐらいです。あと、私はトヨタ車が好きで、モスクワでも乗っていました。日本車はあこがれであり、安全面でも素晴らしいと思っています。
――ドタキャンは日本でも批判的に報じられました。腹は立ちませんでしたか。
いえ、まったくそんなことはありません。なにせ日本の皆さんを傷つけてしまったのは私たちの方なんです。それは私たちの罪であり、失敗なんです。100%私たちが悪いんです。あのときの行動が本当に恥ずかしい。自分を恥じています。ああ、本当にバーニャには断固反対するべきだったんです。でも当時、私たちには彼に抵抗する心の準備はできていませんでした。
スキャンダルのあと、私たちは何度か日本でコンサートを開きました。「ごめんなさい」という曲も作り、謝罪の気持ちを伝えようとしました。ユーリャは、「反抗」をイメージとしているタトゥーに合わず、優しすぎる曲だと反発しました。でも、その歌は謝罪のために必要だったのです。
それでも日本の皆さんの心を戻すことはできませんでした。どうやったら戻ってきてくれるのか…。
――なぜドタキャンの真相が今なお日本人に知られていないのだと思いますか。
わかりません。説明したこともありますが、なぜいまだに知られてないのか…。もしかしたら、私たちが説明した時期が早すぎたんでしょうか。それとも私たちに対する怒りがまだ収まっていないということなんでしょうか。
スキャンダルのあと、コンサートに来てくれた日本人はいますが、以前の100分の1になってしまいました。
――なぜタトゥーの活動を休止し、ソロ活動に入ったのですか。
ソロ活動を始めたのは4年前です。ここロサンゼルスにやって来たのはそのためです。ユーリャと離れようと決断したのは、サードアルバム(2008年発売)を収録してからですね。
私たちはかれこれ10年ほど一緒に活動してきて、関係が行き詰まっていました。ユーリャは出演できなかったり、インタビュー取材に2時間も遅れてきたり、突然ツアーをキャンセルしたり。サンフランシスコでのコンサート失敗は決め手になりました。
(プロデューサーの)ボリスも疲れてしまい、タトゥーの仕事を減らすことにしました。彼は私に「ソロ活動をやらないか」と提案してきました。それまで私はもがいていました。何をしたらいいかわかりませんでした。タトゥーは私の人生そのものでしたから。
そして2009年、ユーリャと離れて私はロスにやって来たのです。彼女はモスクワに残りました。もしかしたらユーリャは、ボリスが彼女ではなく、私にソロ活動を提案したことに腹を立てているかもしれません。
とはいえ、ユーリャは私にとってずっと大事な人です。11歳で知り合い、もう17年にもなります。そのうち10年は一緒に仕事をやってきたわけですから。最近、彼女とよく連絡を取るようになりました。私の直近の目標はソロコンサートを開くことです
今はまだ、ソロとしてはシングル曲を一つリリースしただけです。目標はまず二つ目のシングル曲を作ること、ミュージッククリップとファーストアルバムをリリースすることです。絶対やり遂げます。素敵な曲が少なくとも30はできているので。
はっきり言って、曲を作るのは一朝一夕では難しくて。タトゥー時代は有名な人たちがやってくれたので、私たちは1日寝て起きたらできているという感じだったんですが。
今は完全に独力でやっていますが、自分が作った曲はすごく気に入っています。愛や命、うまくいかなかった日々などをテーマに作っています。
例えば「Walking in the sun」という曲は、私自身に問題が山積みの中、太陽の下でうわごとを言い、不快な朝を考えるという、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラのたくましさに重ね合わせるイメージです。
タトゥーでは自らを演じている感じでした。楽曲を作った人たちは素晴らしかったのですが、私は歌うという役を演じたに過ぎない。今は違います。生きている感じで、歌は私そのもの。自分の思いを楽曲に乗せています。
ロスでの生活はロシアよりもいいです。ここのショービジネスのレベルはとても高いです。もちろん、ロシアにもいいアーティストはいます。ゼムフィーラ、ズベリ、ウマトゥルマン(Uma2rmaH)。ちょうど昨日、テキーラのミュージックックリップが出ましたね。でもまだまだレベルの高いアーティストは多くありません。
最近、ルーマニアでユーリャと一緒にタトゥーとして出演したのですが、難しかったです。ソロ活動に慣れてしまったので。また再びタトゥーとして活動する日が来たら、レベルアップしていなければなりません。
私はすごく責任感が強いんです。仕事が大好きです。朝から晩までスタジオにこもっています。100%完璧主義者ですね。その意味でまだまだ、自分の今の仕事に満足していません。
――もう一度、日本でコンサートを開くなど活動してみたいですか。
オファーがあれば、もちろんユーリャとタトゥーとして日本で出演したいです。可能性はあると思っています。タトゥーとして、あるいはソロアーティストとして日本で出演したいと強く願っています。
さしあたり、そのような計画はありません。まずはアルバムを完成させることです。そしてツアー公演を実現したい。アジアに行って、もし可能であれば、日本も。それは最優先で。もしかしたら日本の皆さんが私のことを許してるかもしれません。まさにチャレンジですね。
もちろん、ロシア、ヨーロッパ、オーストラリアなども。
日本のファンは本当に素晴らしいです。皆さん本当に喜んでくれますし、騒動を起こすようなことはありません。手を振り、写メを撮りますが、決して触れたりしません。コンサートをやってるとき、結構怖いんですね。
南アメリカなどであったのですが、身に詰めているものをとられたり。悪気があるわけではないんですよ。興奮したファン心理です。でも日本のファンはそういったことは決してありませんでした。
規律、他者に対する敬い、控えめな態度、それでいておもてなしの心。それらを併せ持っているのが日本人です。
――ソロ活動として、東日本大震災のチャリティーソングを出しましたね。
はい。東日本大震災が起きてすぐにチャリティーソングを作ろうと決めました。振付師をやっている知り合いの日本人女性のアドバイスでした。タイトルは「Keep On Breathing」です。
とても美しい曲で、歌うときには涙がこみ上げてきます。地震が起きてすぐに曲を作ろうと決めました。当時は一日中テレビのニュースにかじりついていました。一瞬ですべてを失った人たちがたくさんいました。彼らはいったいこの先、どうすればいい?とにかく息をしよう、という思いを込めています。
曲はネットだけで公開し、CDを出す予定はありません。PRもしていません。それは私のエモーションであり、魂の叫びです。曲を出すことで私なりに気持ちを伝えたかったのと、支援をしたかったのです。売上金は「あしなが育英会」に寄付しました。被災した子どもたちを支援する「あしなが育英会」に私はとても心を打たれました。
Facebookを通じて感謝のメッセージが寄せられました。そこには日本人からの特段の反応はありませんでしたが、日本ではFacebookよりも別のSNSが人気だと聞いています。
東日本大震災が起きたときは本当にショックでした。被災者の皆さんはどれほど大変な思いをされ、悲しんだことでしょう。自然の前には人は無力だということを改めて悟りました。戦争は未然に防止する余地はあります。チェルノブイリのような原発事故でさえ人為的な失敗です。
でも、自然災害はそうはいかない。地震、津波、ハリケーン…、人は無力です。どうすることもできない。
そんな中、被災者の行動には心を打たれました。崩れた商店から商品を取る代わりに、お金を置いていったんです。店の人が誰もいないのにです。ロシアだったらさっさと商品は奪われているし、ましてお金なんて置いていきません。覚えていますか、ロシアのドモジェドボ空港でテロ事件があったときのことを。あのとき、空港に出入りしているタクシー運転手たちは他人の不幸に乗じて、料金をつり上げたんです。ひどいです。そういうときに民度というものが表れますよね。
――ミュージックステーションでのドタキャンについて、当時の状況を教えて下さい。
あれは私たちの決断ではなく、イワン・シャポワロフ氏が決めたことでした。彼がすべて私たちの裏で操っていました。
オープニングの出演後、突如イワンから電話が鳴り、スタジオを立ち去ることに。そんな決定を彼はしたのです。
いったい何が起きたのかまったくわかりませんでした。彼は私たちの後ろにタイヤの広告があったとかなんとか言って、ドタキャンの口実にしていました。
バーニャがすべて解決してくれるとも思っていました。私たちは単なるアーティストであり、グループの路線的なことは私たちには難しかったですし、わかりませんでした。
――シャポワロフ氏はどんな人でしたか。
非凡な人でした。彼の特徴的な手法は、スキャンダルととっぴな振る舞いです。日本でも動揺を与えるようなことをして、スキャンダルを起こすことにしました。日本人のメンタリティーを彼はわかっていなかったんです。彼とは決別しました。
――その後、日本人の反応はいかがでしたか。
それから日本でコンサートもしたのですが、まだ許してもらってないのだとわかりました。思うに、日本ではタトゥーという存在はタブー扱いでしょう。
「ごめんなさい」という曲を作って披露したのですが、日本人がとても怒っていることを実感しました。今でこそ、あの行動がどんなにひどいものだったか理解できます。
――日本人に腹を立てていますか。
そんなことはありません。当然の反応でしょう。逆に日本人のそういった相手を信頼し合う姿勢がうらやましく思いました。
たった一度の間違いによって、出演が難しくなってしまったわけですが、それでも中にはファンであり続けてくれた人もいると信じています。
今、私たちはタトゥーとしての自分を振り返る自伝を書いています。ようやく半分ぐらいできましたが、完成したらぜひ日本にも紹介したいです。
ちなみに私自身が文章を書いているのではなく、私から考えや感情を聞いた別の人が文章にしています。
――あなたは最近、どんな活動をしているのですか。
ここ3、4年は働いていませんでした。休業し、子育てに専念していました。2012年になってようやく復帰したばかりです。
シングル曲を収録し、ディマ・ビランとも共演しました。声帯の手術も受けました。今はがらがら声ですが、2カ月後にはよくなると思います。おそらくもう一度手術を受けることになりそうです。コンサートをやり、映画撮影もこなしました。「ゾンビの休日」という作品です。サウンドトラックも私の曲が使われています。撮影は大好きです。
私は歌うだけで、作詞作曲はタトゥーの楽曲を手がけてくれた制作陣が一部加わっています。
――タトゥーは解散したのでしょうか。
私たちは解散したとは思っていません。応援してくれる人はまだたくさんいて、みんなタトゥーを待ち望んでいます。
昨日、リェーナと共演したモスクワでのコンサートには、サンクトペテルブルクやアルゼンチンからもファンが来てくれました。世界中のファンと交流があります。ファンも私たちも大人になりました。多くの人が家族や子どもがいます。ともに成長したという感じですね。
ここ4年、私たちはまともに連絡を取っていませんでした。私たちはもう、バーニャ(イワンの愛称)のチームではないのです。
リェーナはタトゥーの復活には興味がないようです。私のディレクターのカーチャは彼女にタトゥーとして出演するよう誘いましたが、彼女は断りました。私もタトゥーのプロジェクトに誘いましたが、リェーナは「時間が合ったらやる」とだけ。彼女にとって優先事項は、ソロ活動なのです。
――もし日本でコンサートができるなら出演したいですか。
日本人が受け入れてくれるのなら喜んで行きますが、リェーナと相談する必要がありますね。すでに述べたように、私たちは今、まったく別々にソロ活動しています。
あと私には今、家族、子どもがいます。住んでいる国も違いますしね。リェーナとは10年一緒に活動していましたが、最後はけんか別れになってしまって…。たぶん、疲れていたんだと思います。
なので、もしリェーナと合意できれば行きます。リェーナとはここ4年で一度だけモスクワで共演したのですが、彼女はいつも共演をオーケーするとは限らないので。彼女も自分の仕事があるので、それ次第ですね。
あと問題は日本側が招待してくれるかどうかにかかっています。新しいショーが必要でしょうし、私はタトゥーを支持していますし、リェーナと合流できればきっと成功するでしょう。
――日本に対してどう思っていますか。
日本は大好きです。コイが泳ぐ池が美しいですよね。あとタクシー運転手が白手袋をしていて、すごいなと。全く別の文化圏です。着物も好きです。